劣等感とコンプレックスの違いとは
比べる他者が存在しなければ、私は自分の身長が低いなどと思いもしなかったはず。
あなたも今、様々な劣等感を抱え、苦しめられているのでしょう。
しかし、それは客観的な「劣等性」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解してください。
身長のような問題さえも、主観的に還元されるのです。我々を苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」だと。
主観には一つだけいいところがあります。
それが自分の手で選択可能だということです。
つまり好きなように変えられる!
我々は客観的な事実を動かすことができません。
しかし、主観的な解釈は、いくらでも動かすことができる。
そして私たちは主観的な世界の住人である。
劣等感とは、自らの価値判断に関わる言葉なのです。
つまり、価値とは、社会的な文脈の上で成立しているものなのです。
次は言い訳としての劣等感についてです。
劣等感は誰にでもあるものです。
劣等感それ自体は、何も悪いものではありません。
人は無力な存在としてこの世に生を受けます。
そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。
アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。
これと対をなすのが、劣等感です。
人はだれしも、優越性の追求という「向上したいと思う状況」にいる。
何らかの理想や目標を掲げ、そこに向かって前進している。
しかし、理想に到達できない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く。
アドラーは「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と語っています。
現状に満足することなく、一歩でも先に進もうとする。
もっと幸せになろうとする。
こうした劣等感のあり方には、何の問題もありません。
ところが、一歩踏み出す勇気を挫かれ、「状況は現実的な努力によって変えられる」という事実を受け入れられない人たちがいます。
これは劣等感とは違います。
劣等感が強ければ、誰だってネガティブになって「どうせ自分なんて・・・」と思うに違いないのでは…と思いきや、実はそれは劣等感ではなく、劣等コンプレックスなのです。
コンプレックスとは、複雑に絡み合った倒錯的な心理状態を表す用語です。
「劣等感」と「劣等コンプレックス」を、混同しないようにしっかり分けて考えなければなりません。
劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のことを指します。
具体的には「私は学歴が低いから、成功できない」と考える。
あるいは、「私は器量が悪いから、結婚できない」と考える。
本来は何の因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。
しかしアドラーは、目的論の立場からこうした議論を「見かけの因果律」だと退けるわけです。
問題は、そうした現実にどう立ち向かうかなのです。
今、享受している楽しみを犠牲にしてまで、変わりたくないということなのです。
自慢する人は、劣等感を感じている。
劣等感についてアドラーは「劣等感を長く持ち続ける人は誰もいない」と指摘しています。
劣等感は誰もが持っているものだけれども、いつまでもその状態を我慢することはできない、それほど重たいものだと。
劣等感がある状態、それは現状の「私」に何かしらの欠如を感じている状態です。
最も健全な姿は、努力と成長を通じて補おうとすることです。
また、劣等コンプレックスは、もう一つの特殊な心理状態である「優越コンプレックス」に発展していくことがあります。
強い劣等感に苦しみながらも、努力や成長といった健全な手段によって補う勇気がない。
そこで、たとえば自分が権力者と懇意であることを、ことさらアピールする。
それによって自分が特別な存在であるかのように見せつける。
つまり自分が努力することを避けるために、ある種の権力者と仲良くすることで、ある種の特別感を与えてもらえるということです。
要するに自分が努力することを避けているわけです。
あるいは、経歴詐称や服飾品における過度なブランド信仰なども、ひとつの権威付けであり、優越コンプレックスの側面があるでしょう。
「私」と権威を結び付けることによって、あたかも「私」が優れているかのように見せかけている。
つまり偽りの優越感です。
by Rich Schefren
こういったこともマーケティングにおいては、使える知見になるはずです。
顧客の心理状態を読み解き、顧客を虜にするためには深い洞察力が必要なのは言うまでもありません。